自分を応援する力が、人生の「自由」を最大化する




スポーツや芸能の世界を眺めていると、ふと違和感を覚えることがあります。
努力を積み重ね、知名度や収入、社会的地位を得た人たちを、生活に余裕のない人々が高いチケット代を払って応援している光景です。

「大衆はパンとサーカスを求める」
― ユウェナリス

「頑張って!」と声をかけるその人こそ、本来は自分自身の人生を切り拓くために頑張るべき立場ではないのか。
その逆転した構図が、社会の中であまりにも当然のように受け入れられていることに、不思議さを感じています。

「己を知らぬ者は、他人を熱狂的に応援する。」
― 無名

見過ごされている「応援依存」

かつて、たばこは「大人の嗜み」とされ、ギャンブルも「娯楽」として正当化されていました。
しかし今では、健康被害や社会問題を生むものとして規制や教育の対象となっています。

私は「応援文化」も同じ構造を持っているのではないかと考えます。
受け入れられすぎているために疑問を持たれにくく、けれど実際には、個人の人生や家庭、さらには社会全体に長期的な影響を及ぼしているかもしれない。
それは静かに広がる「依存のひとつ」とも言えるでしょう…

「大衆が熱狂するものには、たいてい真理は含まれていない。」
― ニーチェ

政治や教育の前に必要なもの

将来的には、政治的な規制や教育的なアプローチが必要とされる場面も出てくるでしょう。
しかし、その前に 「自然発生的な気づき」 が社会に広がることが重要だと思っています。

「世の中を変えるのは群衆ではない、一人の自覚ある人間だ。」
― トルストイ

問題はすでにあちこちで小さく「発火」しています。
ただ、それが燃え広がるだけのエネルギーがないだけ。

スポーツや芸能から利益を得ている強力なメディアが縮小傾向にある今、ブロガーやユーチューバーなど、それらの影響の無い発信力のある人の存在が、小さな発火を「延焼」させる役割を担っています。

「人は二度死ぬ。一度は肉体が滅びるとき、もう一度は人に忘れられたときだ。」
― バンクシー

社会的誘惑や風習から離脱した末路

実例として、ある小さな業界で世界レベルの立場を得た人の話があります。
経済的余裕も、時間的自由もあり、誰の顔色も伺わずに、気の向いたときに気の向いたことをライフワークとして楽しむ生活。

20代から40代は自分の打ち込みたいことに集中し、やりたいことを自由に謳歌したうえで、25歳年下の妻と子供とともに365日24時間を共にできる日々を過ごしている…
これは偶然ではなく、若いうちに「応援」や「同調」といった社会的誘惑や風習から抜け出し、「自分の人生」に集中した結果です。

その人は、悩みや問題を相談されるたびに、こう思わずにはいられないと話します。
「もっと多くの人がこの方向性に気づけば、人生はずっと楽になるのに」と。

「他人の人生を応援する暇があったら、自分の人生を生きよ。」
― 孔子(意訳)

「自由とは、他人の期待からの解放である。」
― リチャード・バック

他人より、自分を応援する生き方

娯楽としての応援は悪いことではありません。
しかし、応援に依存がちになり自分の人生を後回しにしてしまうと、本来手にできるはずの自由や可能性を失ってしまいます。

「幸福とは、他人に評価されることではなく、自分で納得する生き方をすることだ。」
― アリストテレス

大切なのは、誰かを応援するエネルギーを、自分自身の人生に振り向けること。
そこから得られる自由は、スポーツや芸能の勝敗を超え、一生の財産になる「自分の生き方」を形づくるものです。

自分や大切な家族を全力で応援する――それこそ…「最高の娯楽」ともいえるでしょう。




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